能登半島地震、怖かったですね。
皆さんのご家族やお家は大丈夫でしたか?
1週間経って、疲れがドーンと出てきたように感じます。
地震直後は、気持ちがハイになってなんとか乗り切れるものですが、時間が経つにつれて気持ちが落ち込むことがあります。
大学の時に災害心理学という講義をとっていて、こういう状態になるよと知っていたため、
できるだけ当時のことを人に話して、気持ちの整理というか心の平穏を保つというか、そういうふうに心掛けていました。
話して気持ちを共有することってとても大事。
あまりのショックで思い出したくない場合は別ですが、皆さんも話すことで心が少しでも軽くなればと思います。
私も怖かったので、気持ちの整理のために書きます。
読みたくない人は飛ばしてください。
元日、私は黒部市の実家にいました。
後で知りましたが、海抜1.2m。
漁港の目の前です。
その日の午後に姉家族が東京から来たばかり。
みんなでゆっくりお茶をしてました。
そしてあの地震。
初めはテーブルの上の飲み物が倒れないように押さえようとしていましたが、途中からそれも難しく。
届いた年賀状がお茶でべちゃべちゃになってました。
ワイングラスが並んだ食器棚が開きっぱなしだったのに気が付き、閉めに行こうとしたら中身が出てガシャンガシャン割れたので、途中で引き返しました。
その後は姪っ子とテーブルの下に避難。
飾ってあった額ぶちも落ちてきて割れるし、他に何が倒れたのかは記憶にありません。
とにかく物が割れる音がすごくて怖くて泣いてました。
津波警報が出る前に、姉が「津波!逃げよう!」と言ったので、持ってきていたリュックを引っ掴み、ガラスの破片が付いた上着をさっと払って出る準備。
姉に手を引かれた甥っ子は、階段で転げ落ちそうになってました。
子どもの脱いだ靴下を探す余裕もなかったので、リュックの中の予備の靴下を履かせ、大慌てで車に飛び乗りました。
コニーとミラを家に残していたので、私たち家族は滑川市の家に行くことに。
落ちてきた物に潰されたりケガをしていないか心配で。
津波に関しては、自分の家なら海も川も遠いし大丈夫なはず。
姉家族と両親が乗った車を待つことなく車を出し、渋滞を避けようと道を選んだつもりがやっぱり渋滞にはまりました。
まだ海の近く。
後ろの車には、わんちゃんを連れた家族が乗っていました。
その時にテレビからは「大津波警報です!」とあのNHKの切羽詰まったアナウンス。
大津波警報は石川県の方ではあったけど、東日本大震災の時は予想の高さを遥かに超える津波があったので、その映像がぐるんぐるん頭を駆け巡りました。
車を捨てるシミュレーションもして、「車を捨てるなら鍵を置いていこうね」なんて言ってました。
海の方をチラチラ見ながら、動かない車に焦りを感じ、本当に怖かったです。
やっと動いて8号線に乗ることができて、ようやく少しホッと一息。
8号線の高架になっているところに、車を停めて避難している人もたくさん見ました。
山の方へずらりと車が並んでいる様子もたくさん見ました。
私の家は海抜40mほどなので大丈夫と思っていたのですが、それよりも上に避難しようとする車がたくさんいました。
結構な高さなのに。
みんな、あの東日本大震災の映像を思い出していたんだと思います。
家に戻って、コニーとミラが「ワンワン!」と吠えている声を聞いて、どれだけ安堵したか。
家の中は、おもちゃが2つ落ちていたくらいで、ほとんど物が落ちていませんでした。
加湿器を落ちると危ない場所に置いていたし、食器棚のロックを閉め忘れたと主人が言っていたし、どうなっているかとても怖かったです。
家の中がいつもと変わらない様子であることって、心の平穏に繋がるんだと初めて知りました。
コニーもミラも「はよ、めし!」と言っているようでした。
いつもの感じの2頭に思わず抱きしめ、この子たちが無事で本当によかったです。
その日は、さすがに実家では泊まれないということで、姉夫婦と母が私の家に泊まりにきました。
実家で食べるはずだったおせち料理を夜に食べ、やっと落ち着いた気がします。
何よりも、子どもたちがこのイレギュラーなお泊まり会を楽しんでくれていたのが救いです。
怖い記憶が残りませんように。
富山県は地震が少ない県。
この定説が覆った今回の地震。
絶対安全な場所はないんだと身をもって知りました。
まだまだ断水している地域もあり、被災された方は本当につらい思いをされていることと思います。
寄付という形でしか役に立てないけど、1日でも早く安心して暮らせる日がくるようにお祈りしています。